『フリック』(2004年、監督:小林政広)観ました。
それも、本編154分の長尺を短い睡眠を挟んで二度も。
一度目は深夜。前に、この映画は観ていて苦痛という情報があったので、苦痛覚悟で(笑)臨みました。
苦痛ではなかったです。
苦痛ではないけれど、なぜ?が多くて、それを読み解きたいという感じで映像を追っていました。
たとえば、妻の告白の場面
なぜ、こんな(夫が仕事人間だから他に好きな人ができたという)ステレオタイプの理由? なぜ、(生活臭のしない部屋のコーナーに椅子という)舞台での独白のようなスタイル?
この監督が、敢えてこんなふうに撮るには理由があるはずと考えてしまうのでした。
窓の風、風鈴もそうです。
その事件が夏だったという理由だけではないだろうとか。
回想シーンの多用にも。
ときどき、市警の佐伯の演技や北海道弁に感心したりしながらも、まだ謎を解きたいという気持ちで緊張していました。
で、何が現実で、どこが夢か譫妄によるものなのか、わからないままエピローグです。
ところが、ここがよかったです。
なあんだ、これは村田の回復の物語&ラブストーリーでいいんじゃないか、と。
のぶこさんの赤い車でドライブ中の村田の幸福そうなまどろみと会話が、この町へ来たときの彼の暗い顔と対照的だなあと感じていると・・
え、対向の白い車って、あのとき乗ってきた車と同じ?と思ったところで終わりました。
高田渡さんの唄を聴いて、眠りにつきました。
そして、朝です、お弁当を作って夫を送り出してから、車のことが気になってもう一度観たのです。
そしたら、最初観たときには気づかなかったけれど、この町へ来たときのシーンに対向する赤い車があるじゃないですか!
そこから、がぜん楽しくなってきました。朝の陽光のなかで観たことも良かったんだと思います。
いろんなことが晴朗で、余裕をもって眺められます。
北海道で撮っていることと無国籍な感じの音楽が合っているなあ、とか
あの、わたしがこだわった妻の告白のシーンは、のぶこの部屋のコーナーの猟銃と対を為している、
妻の死の回想シーンも少しずつ違う(核心に近づく?)グラデーションだ、などなど。
いろんな札で、幾通りもの物語が考えられます。
滑川の貌もひとつじゃなく。
そうなのです、佐伯が言ってたように、真実はひとつじゃない。
登場人物それぞれ、いえ、観客の数だけあるんだと思います。
事実は、幸福そうに、映画が「大好きだ」と男がつぶやいて、この映画は終わったということなのでしょう。
その男の言葉は村田であり小林監督の言葉なのだと、わたしは了解したのでした。
『フリック』は二度観ること、そして二度目は午前に観ること、をお勧めします!