きのう(10/13)は若松孝二監督作品『千年の愉楽』を観てきました。
とても寒い日でした。
会場の金森ホールは函館港の倉庫群、コートを羽織っていったのですが、それでもまだ寒く、台湾や韓国からの観光客で賑わうショップ街で買ったショールを巻いて帰ってきました。
中上健次原作の映画です。
ロケ地も俳優もよかったです。
光る海や寺島しのぶさん演じる若いオリュウノオバの健やかさが、中上健次の小説世界とはちがう晴れやかさでした。
中本の男たちを演じる俳優さんたちもよかったです。
父親の死んだ日に生まれた半蔵役の高良健吾は、やはり中上健次原作の『軽蔑』の時より更に魅力的でした。
美しさと妖しさと無邪気さ。
半蔵が自分に子ができ中本の汚れた血が生まれることへの怖れをオリュウノオバに告げたときのシーンが好きです。オバの答えが心に強く残っています。
「女の腹に宿った命は、仏様がくださったんじゃ。何の悪いことがある?」
そうなのです。オリュウノオバは、産婆として取り上げた中本の子たちを非難しません。まえに半蔵が女でしくじってメッキ工場に行かされたときも、そうでした。
「生まれて来て、生きてあるだけでありがたい。うちはなぁ、お前の姿見る度に、そう思て仏さんに手ぇ合わせとる」
自身の子を幼くして亡くしたオリュウノオバの生の肯定、命の讃歌!
映画の最後に歌詞付きで流れる歌「バンバイ」を聴くまで、あまり「路地」とか「被差別部落」ということを意識せず観ました。
それは、わたしが本州のような部落や差別の歴史がない北海道に生まれ育ったせいかもしれません(別の、アイヌ民族やある種の職業などへの差別はありましたが)。
映画観賞後、若松監督の長らくのご友人である鉄のゲージツ家KUMAさんと、太秦の小林三四郎さんとのトークがありました。
きのうは、若松監督が一年前に交通事故に遭った日なのです(その四日後に亡くなられました)。
わたしは、その前年に若松監督が「寝盗られ宗介」上映とトークを行った時と同じ最前列に座って、お二人のお話を聞きました。
若松監督への愛情にみちたお話でした。
若松監督もKUMAさんも17歳で家出したという話にKUMAさんこと作家・篠原勝之の「骨風」という小説のその場面が浮かんだりもしました。
そのトークのなかで、『千年の愉楽』は多分テレビでは放映されることはないだろう、と小林さんが言われたのにハッとしました。
岡林信康の「手紙」が放送されなかった数十年前のことも思いだしました。
「被差別部落」問題というのは、それほど根深く今に続く問題なのかと、自分の無知も思い知らされます。
KUMAさんにサインを戴いたパンフレットは、パンフレットの域を超えた書物でした。
菅孝行氏による10ページにわたる論考に、差別の歴史と問題を教えられ揺さぶられました。
映画『千年の愉楽』は、〈俺は穢多だ〉と酒場の相客を折に触れて恫喝していた中上健次の原作に対する、〈俺はドン百姓の息子だ〉といい続けてきた映画監督若松孝二による客観化・再審である。観客もまた、自分がいかなる読者であり観客であったのか、映画によって再審されるのである。
(菅孝行「〈路地〉の背景に広がるもの」より)