生きる ー 映画『ギリギリの女たち』①

『ギリギリの女たち』(2011 脚本・監督:小林政広)を観ました。
とても感慨深く、いろんな想いが交錯します。
 
◆冒頭のシーン
15年ぶりに被災地にある実家に戻ってきた三姉妹(渡辺真起子、中村優子、藤真美穂)。
観る前から、冒頭35分の長回しが凄い、ということは見聞きしていました。
でも、映画の手法や技術に詳しくない身としては、それがどういうことかは正直よくわかっていませんでした。
で、実際に観て・・・凄かったです!
わたしが感じた凄さは、映画通のかたたちが言う凄さとは意味合いが違うかもしれません。
その冒頭のシーンは、わたしに不思議な感覚をもたらしました。
長女が奥の和室に座し、次女が居間と和室の境の壁にもたれているのを、カメラは映していました。
さらに、そこに三女が加わっても視点は移動せず、同じところからの映像が続きます。
それは、居間にいる眼が見ているようでした。
その眼は誰でしょう、この世にはもう居ない姉妹の父なのか母なのか、それとも東北で語り伝えられる座敷童子でしょうか、とにかく
そこで一部始終を見ている何者かの眼を感じました。その眼を借りて見ているような気がしました。
そして、眼を借りて見ているうちに、自分がその場にいて、姉妹の話を聞いているようで、語られない姉妹のかつての生活、
思春期の姉妹や幼い日の団欒までもが、確かにそこにあったと思えました。
それがとてもよかったです。
この姉妹を、わたしは知っている
最初の臨場感が、そのあとの姉妹の言動への共感や理解に繋がっていきました。
 
◆姉妹の関係
三姉妹それぞれの人物造型や関係性が見事でした。
脚本を書かれた小林監督は男なのに、三姉妹じゃないのに(笑)どうしてこんなにわかるんでしょう。
わたしは四姉妹の末っ子で、長女とは11歳離れています。
ですから、長女と三女が10歳違う姉妹の力関係や結びつきがわかります。
長女の姿がみえないと三女が動揺したとき、次女は「浜かもしれない」と言います。
訝る三女に、あんたは知らないだろうが大きいお姉ちゃんは夜、浜へ踊りに行っていたのだと。
そうなのです。長女と次女が共有していた思い出や風景と末の三女が見ていた風景は違うのです。
10歳違うということは、上の二人が思春期のころ、末っ子は幼児です。
だから、三人に過ぎた年月も、違う年代での15年。
長女は、次女はすぐ妹とわかったのに三女には、どちらさん?と声を荒げました。
27歳で家を出たとき、三女は十代の高校生。長女のなかの三女はずっとそのときの高校生のままったのでしょう、
30過ぎの女が末の妹とは気づかないのでした。
やっぱり年の近い同士がちかしいのです。
長女は三女には顔も解らず関心もないようでしたが、次女の家庭や子どものことを訊くときは声が優しくなります。
次女は姉の問いには曖昧にはぐらかして答えてたけれど、妹にはふっとうちあけようかという表情をするときがありました。
(その表情や台詞のトーンなど絶妙で、中村さんはもう次女の演技を超えて実在していました!)
三女も小さいお姉ちゃんとは、言い合いをしながらも買い物したり草を取ったりします。
すごく解るところです。わたしもすぐ上の姉とは、一緒に映画に行ったり、レコードを貸し借りしたりしました。
 
◆心に残るシーン
浜の突堤で踊る長姉に抱きついて三女が自分の苦しみを叫ぶ場面、泣きました。
与謝野晶子じゃありませんが、「末に生まれし君なれば親のなさけはまさりしものを」のはずなのに
彼女には十代から庇護してくれる親がいないのです。親代わりとなるべき姉たちも出ていったのですから、しんどいことだったろうと。
冒頭のシーンと違って、ここは高所からの眼。ずっと俯瞰で捉えています。
波の音が果てしもなく。(ここだけではなく、全編BGMのないのが、この映画にはよかったです。蝉の声。花火。夏の音だけで。)
世界と交歓するように、天に捧げるように舞う長女。彼女は、この突堤で海の向こうを夢見、船出し、彼の国で9・11を生き延び、いま震災をうけた故郷で一心に踊り続けます。
冒頭でひどく渡辺さんの演技が演劇的だなと思ったのですが、ここで合点がいきました。彼女は演じる人というキャラクターなのですね。独白のシーンを思い起こします。
そして、この突堤こそが彼女の舞台なのです。祈りの。15年前も今も。
三人の表情は見えないけれど、舞いや叫びや立ちつくす姿が波立つ中の舞台にあり、それを見ている大いなる存在を感じるシーンでした。
 

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
◆息してる
この映画では、映像だけでなく、言葉がとても重要だと思いました。
息してるんだから、死んでない
死んだように眠り続ける長姉を心配する三女に、二女が何度も言う言葉が印象的でした。
これを次女が言うところに、リアリティーを感じます。
次女は子どもを産み育てたことがあるからです。
泣いてるときは静かに眠ってほしい赤ん坊が、音も立てず眠っていると母親は生きているかと心配になります。
顔や指を近づけ、息をしているのを確認しては、ほっとしたものです。
そしてまた、心を病み、夫や息子と別れた次女は自殺しようと思っていたようですから、
生と死について考え続けていたと思います。
「息してるんだから、死んでない」は、そんな彼女が見つけた答だったと思います。
そう、まだ死んでいない、と。
実際、「生きる」の「いき」は息と同源だと広辞苑は記しています。
そして、「生きる」には「甦る・復活する」という意味もあるのです。
映画のラスト、おむすびを食べる三人、大笑する三人に生きる力をみました。
『ギリギリの女たち』は、「生きる」女たちの、つまりは、傷ついてなお「息をしている」全ての人たちを慰藉し勇気づける映画です。
 
本作品と小林監督のほかの作品との関係について感じたことも書きたかったのですが、長くなりました。
次回にすることにします。
 
 
 
 
 
 
 

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