8月、山積みの仕事はちっとも片づかないまま
連日連夜のオリンピックTV観戦に港祭りと
あっという間に日が過ぎていきます。
高校生の詩を読んでいます。
昨年から高文連函館地区のワークショップと詩の審査を担当させてもらってますが、
わたし自身の勉強にもなっています。
高校生の、想いを言語化して伝えたいという衝動は、いまもわたしに覚えがあるものですし、
ワークショップや審査講評で感想や意見を述べるために、自分の考えをまとめることで見えてくるもの教えられるものがあります。
批評の難しさもあらためて実感しています。
批評といえば、きのう本を受け取りに書店に行ったついでに、映画雑誌のレビューを立ち読みしてきました。
けっこう辛口な評でしたが、あれは書いているかたのスタイル(偽悪的・露悪的な生き方でマスコミに棲息している)なんだろうなと思いました。
文学でも映画でも音楽でも、いろんな批評があっていいと思います。
むしろ、あることがあたりまえなのですから・・
自分と違う感想・意見に違和感を覚えることもありますが、いろんな感じ方や表現が存在できることは大事なことです。
そのレビューより、わたしには気になったものがありました。
たまたま見つけて読んだブログでした。
映画雑誌のレビューと同じ、被災地でロケをした映画についてのものでした。
わたしは、その映画をまだ観ていないので、内容にも感想にも疑義をはさむ気はありません。
ただ、否定的な感想の結びに、「復興を盛り上げる作品なら良かったのに」とあったのです。
これには、違和感どころか嫌悪感を抱きました。
もちろん、わたしだって被災地の復興を心から願っています。
しかし、復興と創作や表現を結びつけるのは違うと思うのです。
復興を盛り上げるための映画?復興を盛り上げるのための詩? いやです。
表現者の手足を縛り、心を萎えさせるような、表現の自粛や統制は危険です。
それが善人の身振り口振りであれば、なおさら。
映画に限らず芸術は、人間の暗部をも映し出すものだと思うのです。
そんなことを思っていた今朝、
アイスランドのマリモが生育不良というニュースを聞きました。
マリモは、波があることで転がり全体の光合成が進んで生育するというのです。
その波がなかった状態では、マリモは動かず、別の水草が殖えすぎて、マリモは瀕死となるそうです。
波にぶつかりながら成長するんですね、マリモ。
マリモのように転がりながら大きくなりたいです。