きのうのバイバイ大間原発ウォーク。
わたしの前を歩く、シュプレヒコールのリズムをとる小太鼓を叩いている人が
Cさんと気づいたのは、歩き始めてから30分以上も経ってからだった。
「海炭市叙景」の仲間である。ほかにも実行委員のTさん、Nさん、Kさんがいるのは気づいていたし、挨拶もしたのに、Cさんには、振り向くまで気がつかなかった。
彼が参加して小太鼓まで叩くとは予想していなかったからかもしれない。だが、考えてみれば、Cさんなら頷けることだった。
わたしが一度も会ったことのない佐藤泰志とこれほど関わるようになったのは、
Cさんが追想集「きみの鳥はうたえる」を送ってくれてからのことだ。
17歳の時、「市街戦のジャズメン」を『北方文芸』で読み衝撃を受けたものの、佐藤泰志の読者ではなかった。
泰志の死後、函館文学館に「海炭市叙景」の原画を飾るため、友人知人が寄付を集めていて、十代の衝撃を覚えていたわたしも寄付した。
その報告集「叙景」を飾る会が送ってくれたので、会の代表であるCさんに昔日のことと共にお礼状を書いた。
そうしたら、その数年後、Cさんが追想集を送ってくださったのだ。
巻頭のCさんの文章は実にいいものだった。
いや、Cさんだけでなく、恩師も友人も心のこもった文章だった。
わたしは感動した。
とくに文学専門とか、文章を書いている人というわけでもない人たちに、こんないい文を書かせる佐藤泰志という作家と作品をを知りたくて読み始めたのだと思う。
Cさんは、佐藤泰志と旭中学・西高と同期。札幌の弁護士Aさんもそうだが、
文学を志した早熟な13歳から18歳までの泰志をみているのだ。
あの、波音と鴎の声を聞きながら山を仰ぐ、海辺の学校へ通った少年たちだったのだ。
CさんもAさんも、声を荒げることもない穏やかな人たちだが、裡に熱いものを持っている。
(唐牛健太郎の墓参をするようになったのも、Cさんが函館での唐牛の墓参の世話役を引き受けておられたからなのだ。)
佐藤泰志は、いい友人たちを持ったものだと思う。
彼の才能と早世を惜しむ、裡に熱いものを持った人たちに、泰志が会わせてくれた。