10月10日
体育の日は今年は12日ですが、今日は土曜日、運動会のところも多いのでしょうか。
函館は晴天ですが、風が強いです。
一昨日の道内は暴風雨で、道東では被害も大きかったようです。
札幌ではポプラが倒れ、函館では街路のナナカマドが幹から折れていました。
昨日も曇りで風は強かったのですが、雨はあがっていたので一日早いけど東山墓園に行ってきました。
いつも手入れの行き届いている園内も、さすがに落ち葉が散らばっていましたが、倒木はなかったようです。
ナナカマドの実もすこしは落ちていましたが、まだしっかり枝枝に赤く灯っていました。
やがての雪のなかでも鳥たちのため最後まで残ってくれるでしょう。
10月10日、佐藤泰志が没してから25年です。
17年目にクレインが作品集を発行してくれてから8年、作品の映画化、文庫本、初期作品集、関連本等々ほんとうに大きな動き、願った以上の結実と反響がありました。
お参りしてからも、しばらく墓前に佇んでいました。
お墓を後にすると山の頂きが木々の向こうに見えます。
ここのお墓はみな、函館山を向いているのです。
そのことに慰められます。
映画化の前から毎年行っている10月10日の墓参、泰志の評価だけでなく、わが身をとりまく状況も年々変化しています。
昨年は想像もしていなかった病気で今年の半分は療養に費やしました。
でも、こうしてまた佐藤泰志の墓参もでき、読書もできる、うれしいです。
墓参の行き帰りも数日前に読んだ『ポプラの秋』(新潮文庫)のことを思っていました。
いつも素敵な音楽や書物や映画を紹介してくれる西の友@bacuminさんが教えてくれた小説です。
わたしが映画『岸辺の旅』が全国で封切りされたのに、函館での公開はまだだと嘆いたことに応じて、同じ原作者・湯本香樹実さんの『ポプラの秋』がいいよ、と教えてくれたのです。
(そのことについてブログにも書かれています。
http://cuminnote2.exblog.jp/
関西弁があたたかい味わい深い文章です、ぜひご一読ください。)
『ポプラの秋』のあらすじは、文字通り粗っぽく言えば、小学一年で交通事故で父親を失った千秋という少女とおかあさんと、ポプラ荘の大家のおばあさんと住人たちが登場するお話を、20代になった千秋のまなざしで描いた小説です。
湯本さんの文章は、人の心や行動の複雑微妙なところを見事に書いていて溜息が出るほどです。最初の母親の行動へのひっかかりというか謎も最後にあかされる手紙で共感よりもっと深いところまで読者を連れていってくれます。
『ポプラの秋』を読んで、佐藤泰志の家族を思いました。
先月の文学館主宰の講演会にゲストでいらした佐藤喜美子さんは、緊張を強いられた泰志との生活から解放された家族はのびのびと生活した、その一方で、家族は、わたしたちは、いったいなんだったんだろうとも思った、と語られていました。
実際、泰志が亡くなったとき涙をみせない子どもたちに悲しくないのかと母親に訊かれた長女と長男は、うそ泣きをしたと中澤雄大さんは評伝抄「死んで花実が咲いた人」(河出書房新社『佐藤泰志 生の輝きを求めつづけた作家』所収)で書いていました。
でも、死なれた妻は、そんな解放感だけでない疑問や怒りや虚しさのつきまとう日々だったろうと思います。いえ、うそ泣きをした子どもたちだって成長過程で何度も考えてきたことだろうと思うのです。自死された家族は、その死を受け入れるのに長い時間がかかる気がします。『ポプラの秋』の千秋が父の死の真相と母の想いを知るのは18年後の秋でしたが、『海炭市叙景』映画化のきっかけになる佐藤泰志のイベントを開いたのが、泰志没後18年の2008年の秋でした。
2010年に映画ができ文庫本も次々発行されました。
それを見届けるように翌年の2月、泰志のお母さんはなくなりました。
2011年3月、佐藤泰志ご家族と映画『海炭市叙景』の製作実行委員たちとの懇親会がありました。
みんな、いい笑顔でした。
3人の子どもたちは父親を理解し受け入れる年齢になっていました。
その笑顔をみられたとき、「佐藤泰志とその世界」と映画『海炭市叙景』に関わって本当によかったと思ったものです。
想いの深まる秋です。