『ギリギリの女たち』を観ながら、同じ小林政広監督の『春との旅』や『ワカラナイ』『歩く、人』などが頭をよぎりました。
もちろん、映画でも小説でも、作品は個々の独立したものとしてみられ、それ自体で評価されるべきです。
しかし、 作家でも詩人でも、おそらく映画監督も、生きていく創作活動の中で作品を作っているのですから、
ひとつひとつの作品は、その旅の軌跡の里程標石(マイルストーン)なのだと思います。
ですから、作品の手法や規模は違っても、それまでの旅で見てきた風景や感じた風、思索のあれこれが反映されたものになるのではないでしょうか。
そこから作品のモチーフや作家のテーマが見えてくるように思います。
◆『春との旅』と『ギリギリの女たち』
『春との旅』(2010年)は東日本大震災の前年の作品ですが、わたしは震災後に観ました。
忠男(仲代達矢)と孫の春(徳永えり)が、忠男の兄姉弟を訪ねてゆくロードムービーです。
そのなかで、忠男が16で出た故郷に立ち、呟くシーンがあります。
自分が知っている故郷とはすっかり変わってしまった風景を見た忠男は、ここはむかし遠浅の浜だった
津波がきて俺の家は波にさらわれたんだ、と述懐します。
気仙沼・唐桑です。
3・11の大震災前の映像です。
映画公開と同時期に出版された小説『春との旅』にも同様の記述があります。
3・11後に、これを観た読んだわたしは、ふるえました。
予言のようで・・・
東日本大震災は、被災された方々はもちろんのこと、直接に被害を受けなかった人々にも衝撃や傷を負わせました。
唐桑に家を持ち、『ワカラナイ』や、『春との旅』を撮った小林監督が受けた衝撃も大きかっただろうと推察します。
そして、震災後の第一作が『ギリギリの女たち』でした。
3・11を挟んでの両作品。
『春との旅』は綺羅星の如きベテラン名優たちの出演する、万人が万人、名作と称える作品。
『ギリギリの女たち』は実力ある三人の女優のみの、評価の分かれるだろう作品。
兄姉弟を訪ねてゆく旅と、家に戻る姉妹。移動する風景と、少ないカット。
一見、真逆にみえる両作品ですが、わたしには姉妹のように感じられます。
それは、やっぱり震災に関係あることからでした。
次女と三女(彼女には『ワカラナイ』の少年が色濃く入っています)が浜で語るシーン。
三女が、何度も津波に襲われながら何故ひとはまたここに家を建て暮らすのだろうと言ったのに対して
次女が
ここを捨てて出ていったわたしには、その気持ちがよくわかる
そんなふうに言ったのです。
◆サクラマスの旅
その言葉に、生まれた川を下り海へ出る魚を思いました。
映画『歩く、人』(2002年)で緒形拳さん演じる主人公が、毎日歩いて見に行く孵化場で、鮭の稚魚に
大きくなって戻って来いよ
うれしそうに愛しそうに語る姿も浮かびました。
三女の問いも次女の言葉も、脚本を書いた小林監督の想いだったのではないでしょうか。
そして、不思議なことですが、その予兆のような『歩く、人』なのではと思うのです。
先日、TVで滝を登るサクラマスの映像を観ました。
生まれた川のもっと上流をめざすサクラマスは、激しい急流に何度も何度も挑んでいました。
その姿に胸をつかれます。
なぜサクラマスは海へ出るのでしょう。
それはたくさんの餌を食べ大きくなるため。
なぜ、海へ出たサクラマスは苦労して故郷へ戻るのでしょう。
それは、生まれた母なる川が子を産み育てるのにいちばんいいという判断なのです。
サクラマスはサケ科の魚ですが、海へ出る降海型と生まれた川にとどまる陸封型がいます。
ギリギリの長女と次女は降海型の、三女は陸封型のサクラマスのようです。
どちらも長い旅です。必死で生きて、いま邂逅したのです。
『ギリギリの女たち』は、ここまで生きてきた、ここでまた生きていく女たちへのエールであるとともに
監督自らの旅を肯定するマイルストーンなのだと思います。
そんなことを思わせてくれる『ギリギリの女たち』でした。