きょうの朝日新聞「おやじのせなか」は映画監督の是枝裕和さんでした。
《父親が久しぶりに帰ってきたとき、母親がまぁ怒ってて。
「この子がかわいくないんですか」って。僕は四つとか五つだった。
「かわいいに決まってるじゃないか」って言うと思ってたんだけど、父親は黙っていた。
しばらくして、「すまない」って。給料日にいなくなっちゃうようなことがよくあった。長いときは2週間ぐらい。2000年に亡くなるまで、ほとんど会話のないような状況でした。》
是枝監督の父親は牡丹江で敗戦を迎え、シベリアで強制労働を3年ほどしていたということです。
普段は会話もないのに、「テレビの仕事をしたい」と言う監督に家族皆が大反対する中で、ただひとり父親だけは「自分の人生なんだから、好きなことをしたほうがいい」と言ったそうです。
《楽しそうじゃなかったんですよ、僕の父親は。家をあけてる時にバクチをやってたとしても、楽しんで帰ってきたという感じではなかったから。》
読んでいて、石原吉郎の詩が重なりました。
酒がのみたい夜は
酒だけではない
未来へも罪障へも
口をつけたいのだ
そして、高田渡さんが唄う「酒が飲みたい夜は」のこともよぎりました。
石原吉郎の詩なのですが、高田さんの唄には「罪障へも」の部分がありません。
十代のころ詩に目覚めた高田さんが、理由なく詩を改変するとは思えず
これは石原さんの苛烈な体験を「罪障」を、知らない自分が唄ってはいけないと思われ削ったのか、と考えたものです。
石原吉郎と同じくシベリアに抑留されていた是枝監督の父親も、飲んでも遊んでも生涯とけない凍土を罪障を抱えていたのでないかと思います。
「戦争を知らない子どもたち」の団塊世代より一回りも若い是枝監督(49歳)の父親が、そんな戦争の深い傷を負っていたことに、驚きもしました。
二十代だったのか、父親は。青春時代を、戦争と極寒の地で奪われたのか、と。
新聞の小さな記事のなかに、戦争の罪深さ-その永きにわたる影と家族の物語が浮かんできたことでした。
是枝監督の映画は、『誰も知らない』と『歩いても歩いても』しか観ていませんが、
人の業や傷へのまなざしは、そんな父親をみてきたからなのかもしれません。
「楽しそうじゃなかったな」という見出しの「おやじのせなか」は、娘と保育園のお友達親子とのたこ揚げに触れ
《楽しそうに生きてる大人がそばにいるって、大事だと思う。それは父親だけの役割じゃないと思います。》と、結ばれていました。
楽しそうに生きたいし、実際に楽しく生きられる世であれ、と願います。